ASEAN事業の成功基盤を築くため、人材戦略の鍵となるシンガポールの新制度を理解する
シンガポールの就労パス(Employment Pass, 以下EP)は、世界で最もダイナミックなビジネス・金融ハブの一つへのアクセスを可能にする重要な資格です。しかし、2025年現在、その取得ルールは根本的に変わりました。従来比較的シンプルであった給与基準ベースの制度は、COMPASSと呼ばれる、多面的かつデータ主導の新たなポイント制度に移行しました。これは単なる事務手続きの変更ではなく、シンガポールがグローバル人材を選定する上での戦略的な方針転換を示すものです。
アジアでのキャリアを目指すプロフェッショナル人材、そして優秀な人材の確保を目指すグローバル企業にとって、この新制度を深く理解することは極めて重要です。もはや高い給与を提示するだけでは十分ではありません。シンガポール人材開発省(MOM)は、申請者個人と雇用主である企業双方を、学歴から現地人材の雇用への貢献度、社内の国籍多様性に至るまで、一連の基準に基づいて評価します。
本稿は、2025年におけるシンガポールEP取得のための包括的なガイドです。COMPASS制度の各要素を深く分析し、申請プロセスの段階的な手順を解説し、必要書類を整理し、帯同家族のビザサポートについても説明します。これは、シンガポールの新たな人材獲得競争の現実を乗り切るための、皆様の必携の書となるでしょう。
就労パス(EP)とは何か、その対象者は誰か
就労パス(EP)は、シンガポールにおける主要な就労ビザであり、外国人専門職、管理者、経営幹部(Professionals, Managers, and Executives – PMETs)を対象としています。他の就労ビザとは異なり、EPには発給数の上限(クオータ)はありませんが、その代わりに厳格な適格要件が設けられています。
2025年現在、EP候補者の選考プロセスは、以下の二段階審査となっています。
- 基準給与額の達成: 候補者は、自身の年齢、経験、そして業界水準に見合った給与を受け取る必要があります。
- COMPASS制度での合格点獲得: 申請は、総合評価制度であるCOMPASSで最低40点を獲得しなければなりません。
2025年の基準給与額
新規EP申請者の最低基準給与額は、月額SGD 5,000(約57万円¹)から始まります。しかし、この金額はあくまで若年層の出発点であり、年齢と共に段階的に引き上げられます。例えば、40代半ばの経験豊富な専門家の場合、要求される給与額はSGD 10,500を超えることがあります。
特に金融サービス分野では、より高い基準が適用され、最低基準給与額はSGD 5,500から始まり、同様に年齢に応じて上昇します。
この制度の目的は、外国人専門家が安価な労働力としてではなく、現地の労働力を補完する真の高度専門人材であることを保証することにあります。MOMの公式サイトにある自己評価ツール(Self-Assessment Tool – SAT)を利用して、給与水準が要件を満たすか事前に確認することが推奨されます。
COMPASS — 新ポイント制度の解読
COMPASS(Complementarity Assessment Framework)は、新しい選考プロセスの中核をなす制度です。その目的は、外国人材の評価プロセスをより透明性高く、予測可能で、総合的なものにすることにあります。各申請は4つの基本項目と2つのボーナス項目で評価され、合格には最低40点が必要です。
評価項目の構成
項目 | 内容説明 | 20点(期待を上回る) | 10点(期待通り) | 0点(期待に満たない) |
C1: 給与 | 候補者の給与を、同業種の現地PMETの給与水準と比較。 | 90パーセンタイル以上 | 65~90パーセンタイル | 65パーセンタイル未満 |
C2: 学歴 | 候補者の学歴。 | トップレベルの教育機関²の学位 | 学士号または同等資格 | 学位資格なし |
C3: 多様性 | 企業内の同国籍の外国人PMETの割合。 | 5%未満 | 5%~25% | 25%以上 |
C4: 現地人材雇用 | 企業内の現地人PMETの割合を、同業種平均と比較。 | 50パーセンタイル以上 | 20~50パーセンタイル | 20パーセンタイル未満 |
¹ 1シンガポールドル=115円として換算。
² 「トップレベルの教育機関」リストには、QS世界大学ランキングなどの上位約100校、アジアの主要大学、専門分野で評価の高い機関が含まれます。東京大学や京都大学なども通常このリストに含まれます。
COMPASS評価項目の分析
個人属性(候補者自身の評価)
- C1(給与): 候補者の給与が、現地の同職種の専門家と比較してどの程度競争力があるかを評価します。20点を獲得するには、給与が業界の上位10%に入る必要があります。
- C2(学歴): 評価の高い大学の学位は10点、特に「トップレベル」と認定された教育機関の学位は20点満点となり、エリート人材を明確に優遇する姿勢が示されています。
企業属性(雇用主の評価)
- C3(多様性): この項目は、企業内で特定の国籍の従業員が固まることを防ぎ、多様性のある職場を促進することを目的としています。すでに多くの日本人駐在員が在籍する企業が、さらに日本人を採用する場合、この項目で0点となる可能性があります。
- C4(現地人材雇用): MOMは、貴社のシンガポール人専門職の割合を業界平均と比較します。現地人材の雇用に積極的な企業は高く評価されます。
ボーナス項目 — 国家戦略との連携
基本項目で40点に満たない場合でも、ボーナス点を加算することで合格する可能性があります。
- C5: スキルボーナス(不足職務リスト): +20点候補者の職務が、シンガポール国内で人材不足が深刻な職種をリスト化した**不足職務リスト(Shortage Occupation List – SOL)**に含まれている場合に付与されます。
- SOLの職種例(2025年): AI専門家、クラウドエンジニア、サイバーセキュリティ専門家、農業技術者、金融・投資アナリストなど。
- C6: 戦略的経済優先ボーナス: +10点シンガポール経済開発庁(EDB)などの政府機関が推進する戦略的経済プログラムに参加している企業に付与されます。
申請手続きのプレイブック — ステップ・バイ・ステップ・ガイド
EPの申請プロセスは完全にデジタル化されており、雇用主または認可された移住エージェントによって行われます。
ステップ1: 事前準備 — 求人広告の掲載義務
公正な考慮のためのフレームワーク(Fair Consideration Framework)に基づき、雇用主はEP申請の前に、国内の求人ポータルサイトMyCareersFutureに、最低14日間、求人広告を掲載する義務があります。これは、まずシンガポール国内の候補者に機会を提供するための措置です。
ステップ2: myMOMポータル経由での申請
雇用主は、政府のmyMOMポータルでオンライン申請フォームに記入し、企業、候補者、役職、給与に関する詳細情報を提供します。
ステップ3: 必要書類
申請には以下の書類のスキャンデータが必要です。
- 候補者側:
- パスポートの個人情報ページ
- 卒業証明書、成績証明書(英文でない場合は公式翻訳が必要)
- 企業側:
- シンガポール法人登記局(ACRA)発行の最新の会社登記情報
重要事項: 2023年9月以降、MOMは学歴証明書の第三者機関による認証を義務付けています。これは申請前に完了させておく必要があります。
ステップ4: 審査と結果通知
- 所要期間: ほとんどのオンライン申請は10営業日以内に審査されます。
- 結果: 承認されると、雇用主は**原則承認書(In-Principle Approval – IPA)**を受け取ります。この書類により、候補者はシンガポールに入国できます。
ステップ5: シンガポールでのビザ発給手続き
候補者がシンガポールに到着後、以下の手続きを完了させます。
- 健康診断の受診(IPAで要求された場合)。
- MOMのサービスセンターで生体認証情報(指紋と顔写真)の登録。
- EPカードの受領。
EPの更新と長期的な展望
- 有効期間と更新: EPの初回有効期間は通常最大2年、その後の更新は最大3年です。更新手続きも新規申請と同様に、COMPASS制度の基準を満たす必要があります。
- 永住権(PR)への道: EPを保有することは、シンガポールの永住権を申請するための重要な前提条件の一つです。ただし、PRの取得は保証されておらず、滞在期間、家族構成、社会への貢献度など、様々な要因に基づいて総合的に判断されます。
帯同家族のビザ — Dependant’s Pass と Long-Term Visit Pass
EP保有者は、追加の給与要件を満たすことで家族を帯同させることが可能です。
Dependant’s Pass (DP) — 配偶者・子供向け
- 対象者: 法律上の配偶者、および21歳未満の未婚の子供。
- 給与要件: EP保有者の月額固定給与がSGD 6,000(約69万円)以上であること。
- 就労: DP保有者がシンガポールで就労するには、雇用主を通じて別途、同意書(Letter of Consent – LOC)を取得する必要があります。
Long-Term Visit Pass (LTVP) — その他の家族向け
- 対象者: 事実婚のパートナー、21歳以上の障害を持つ子供、継子、そして両親。
- 給与要件:
- パートナーや子供の場合: EP保有者の給与がSGD 6,000以上。
- 両親を帯同する場合: EP保有者の給与がSGD 12,000(約138万円)以上。
結論
シンガポールは、世界最高水準のグローバル人材に対して門戸を開き続けていますが、2025年現在、その選考基準はかつてなく厳格化されています。COMPASS制度の導入は、単なる給与額による評価から、より定性的で総合的なモデルへの移行を象徴しています。EPの取得成功は、もはや候補者個人の資質だけでなく、雇用主である企業がいかにシンガポールの経済エコシステムに貢献するかにかかっています。
この新しいシステムを乗り切るには、綿密な準備、細部への注意、そして候補者のプロフィールと企業の人事戦略双方を考慮した総合的なアプローチが求められます。これらの新しい、より洗練されたルールに対応する準備ができている企業やプロフェッショナルにとって、シンガポールはアジアの中心で、比類なき成長とキャリアの機会を提供し続けるでしょう。